与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」

2012年01月30日

与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」


⑨立神岩

立神(たてぃがん、たちがみ)岩は、男性的景観を誇る与那国島の文字通りのシンボルです。
頓岩(とぅんがん)という別称は、「神」という文字がつくよりもリアルな印象があります。

前回の人面岩とは違い、この岩には伝承が残っています。「与那国島の歴史」という池間英三さんの労作に詳しいのですが、以下のサイトにはこの著作からのダイジェストと思われる記述がありますので、紹介しておきます。
「与那国島観光スポット」


与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」



さて、伝承の通りここには神が宿っておられるのかもしれませんが、
元は言うまでもなく男根に見立てられる岩です。
ドゥナン(与那国)の住民が、中でも若い男女がこの島に近づいてクスクス笑いながら子宝など願う様子が手に取るように想像できます。
比較的豊かな自然に恵まれたこの島では、猥雑な(褒めています)感情やこれに基づく祭事は大切な娯楽であったろう、とはやはり池間さんの著書から私が得た知見です。

海岸まで降りずにこの屹立する岩を眺めるポイントは二カ所有り、
一カ所はその名も「立神岩展望台」という名がついた整備された(WCもある)場所です。
ここからは南南西に向かってこの岩をやや遠望します。
立神岩と、付近の断崖とセットにして見晴らす海原はいいものです。

もう一カ所は、わずかに車道をわずかに西に進んだ所にある、ごく最近に設置されたと思われる展望ポイントです。
ここにも駐車場があり、わずかに海に向かって足を運びますと、親切にも足を乗せる石が置いてあり、
その上に立つと眼下に立神岩を見下ろすことができます。
コブラの頭のようだ、というのがここから見た私の第一印象です。

この日は天候がよくなくて、やや凄惨な雰囲気の中の立神岩を見たことになりますが、
かえって印象深い出会いになったかもしれません。


与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」






⑩クブラバリ

与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」



悲しいなどという月並みな言葉では語れないクブラバリの悲劇。
それをわかっていただくために、
八重山や沖縄〜つまり南西諸島と日本との関係を中心に、近世までのその歴史を超早回しで復習してみましょう。

◇港川人に代表される旧石器時代に属する人骨が南西諸島各地で発見されているから、数万年前からヒトはこの島々で生きてきたことがわかる。
◇言語学の面から、南西諸島と(九州以北の)日本列島との基盤となる文化は共通していたと思われる。どちらが先かはわからない。
◇弥生〜古墳時代以降の日本列島の政治的統一の荒波に巻き込まれず、独自の文化社会を守ってきた。
◇ただし、黒潮を活用したのか、南西諸島発の貝が内地各所で発掘される等、この頃すでに交易が行われていたと思われる。
◇12世紀頃から、沖縄本島では次第に小国家建設の動きが起こってきた。中国や日本との交易が活発化した。
◇14世紀頃から、沖縄本島では三山を中心に統一への動きが活発になり、15世紀初には尚氏が統一に成功、琉球王国が誕生した。
◇しかしこの時点では八重山など南部の島々はその版図に含まれていない。
◇15世紀後半になると、琉球は中継貿易によって強盛となり、次第にその支配領域を南に広げていった。
◇波照間生まれのオヤケアカハチが石垣島で、女傑サンアイ・イソバが与那国島でそれぞれ琉球に立ち向かったのはこの頃である。
◇中国の冊封体制下の琉球は、16世紀半ばまでに、奄美から八重山に至る南西諸島のほぼ全域を支配したと思われる。当然、島々は琉球(首里王府)に対して納税の責務を負った。
◇ところが中国や欧州人によるアジア通商が活発になると、琉球の繁栄は下り坂になった。
◇一方、日本では、戦国末期から関ヶ原合戦、そして幕藩体制の締め付けによって、南端の薩摩藩の財政が窮乏化した。島津氏は勢力の衰え始めた琉球王国からの収奪作戦を開始した。
◇1609年には、薩摩藩は琉球出兵を行い、一時はその国王を捕え、江戸まで連れて行くなどし、琉球支配を幕府に認めさせた。
◇薩摩藩は表向き琉球に独立国の体裁を保たせて中国(清)との朝貢貿易を継続させ、その利益を手に入れた(密貿易)。また、奄美を領土にした。
◇薩摩藩は琉球に重い課税を強いた。これに苦しむ琉球は、支配下の島々にも一層の納税を要求した。それは島民一人当たり単位に課税されたので、これを人頭税と呼ぶ。


与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」



要するに、日本の近世以降、与那国島など八重山に属する島々の住民は、
幕府→薩摩→琉球→与那国、という支配のヒエラルキーの末端に位置していたため、苛烈極まる負担を強いられたことになります。
人頭税が廃止されたのは、なんと1903年、明治36年のことでした。

人頭税というしくみは消費税よりタチの悪いもので、
どんな病人であっても貧乏人であっても「公平」に課税されます。
米国中心に広まった新自由主義の思想では、この政策の実現が検討されました。(例えばブッシュ政権で、例えば小泉純一郎=竹中平蔵ラインで)

与那国島に2000人の人口があれば2000人分。
3000人に増えたら3000人分の税を、
限られた島の生産力の中から工面して琉球の役人に納めなくてはならないことになります。

ここクブラバリにしみつく悲劇の伝説、いえ実話は、
このような歴史的、地理的な与那国の立ち位置がもたらしたものなのです。


与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」


バリとは裂け目の意味を持つ与那国の言葉です。
島の、島民の税負担を少しでも軽くするためには、島の人口が増えないようにしなければなりません。
この海岸沿いのクブラバリという大岩の裂け目は幅3m間隔で広がっているのですが、
ここをを妊婦に跳躍させ、 渡ることのできた妊婦にだけに出産が許されたわけです。
しかし、何とか跳べた女も、流産の危険が待ち構えています。
跳躍に完全に失敗すれば7m下に転落します。

内地においても、農村ではしばしば「間引き」と称する人工調節が行われましたが、
ヒトが作り出した国家という機構の冷酷さが改めて身にしみる場所です。

ここに向かうには、久部良集落から空港方向にむかって間もなく、左手に入ります。
標識がありますし、駐車場も備わっています。


与那国島紀行〜その5「立神岩」「クブラバリ」




島には他にも人枡田(トングダ)という人口調節のための悲しい田がありますが、ここには行く時間がありませんでした。


続く



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Posted by gadogadojp at 18:30│Comments(0)グルメ
 
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