伊江島紀行〜その5:「タッチュー」他
2013年01月31日
⑬タッチュー(グスク山)

登山の前日に、北側(「カーサ・ビエント」側)から撮影したグスク山。
伊江島島内ではグスク(城)山、
島外からは主にタッチューと呼ばれる標高172.2mの岩山に登って来ました。
岩山、と軽く書きましたが、ここは古くから島人の信仰の対象になっていたようで、ふもとにはウタキ(城山御嶽)が置かれています。
本来気軽に登ってはならない山だったのでしょう。
別の回にも書きましたが、内地で言う「磐座」としての存在感がみごとです。
ウタキに拝みをさせていただきました。

登山の当日、登山道入り口(売店/駐車場のある場所)から仰ぎ見たグスク山。
私たちはレンタカー利用でしたから、ウタキ前まで車で進み、ここから徒歩で登ります。
おそらく標高100mはありそうなこの場所には売店、トイレ、駐車場が。
ただ、ここウタキ前に至るルートを示すわかりやすい道路標識はありません。
できるだけ上に進もうとした結果、たどりつきました。
ここからなら、私たちの弱い足でも20分もあれば登れるこのグスク山ですが、直登ですから楽とは言えません。
狭い階段ですが、なんとかすれちがえますので、休み休み行かれても大丈夫だと思います。
ただ、風の強い日には十分注意してください。

低い岩山ですが、このような急階段の連続なので息が切れます。
さて、この山にはいくつかの話題があります。
一つ目は、その地質学上の特質です。伊江村のホームページを見てみましょう。
「城山は、島より7千年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられました。この現象は、理論として語られていたが実際に見るのは世界でも伊江島しかありません。」
目で見える形では、今の所世界でたった一カ所だということです。

頂上に到着。360度の展望が待っています。
二つ目は、「タンナーパ足跡の伝説」です。
頂上の岩の一つに巨大な「足跡」があります。その脇の石版の説明を紹介しましょう。
「その昔、伊江島にタンナーパという力持ちの大男がいました。
隣村との戦いでタンナーパは城山に登り攻めてきた敵に大きな石を投げつけ退散させました。
その時力いっぱい足を踏ん張ったために足跡が残りました。」
やりましたね、英雄玉那覇(?)さん。

東南側の眺望。畑地、米軍管理地や飛行場も見えていますが、写真ではうまく写っていません。
三つ目は、この山のふもと一帯に旧日本軍の守備基地が置かれ、上陸した米軍との間に熾烈な戦闘が行われたことです。
伊江島在住のnankaiadanさんの詳しいブログによれば、
第2歩兵隊第1大隊(隊長井川正少佐、通称井川隊)の880名に加え、他の沖縄地域から徴発された民衆や伊江島島民(14歳以上)が戦闘に加わり、グスク山眼下の地域で日米双方に数千人の死者を出すことになりました。
米軍は、ふもとの女山を「Bloody Ridge(血ぬられた丘)」と名付けたそうです。
もちろん、この戦闘にタンナーパは現れませんでした。

頂上から南側(港側)の眺望です。大きな町であることがわかります。こんもりとした緑の丘が女山だと思われます。
現在もこの伊江島の面積の35%が米軍の管理下に置かれています。
戦後、島民の激しい抵抗をしりぞけて60%にも達したそうですが、粘り強い運動の成果でここまで減りました。
とはいえまだこれだけの旧農地が「日本」あるいは「沖縄」に戻っていません。
戦争で勝った国が、負けた国にまだ居座っている、という見方に無理がありますか?
「戦勝国による押しつけ憲法」を「改正」しようとする動きが活発になっていますが、
「戦勝国による押しつけ接収」がまだ終了しておらず、それどころかそれを積極的に是認したうえで、憲法だけの押しつけを語るのは、
あまりにもひどい自己矛盾ではないかと思うのですが?
「改正」を唱える政治家は、このグスク山の頂上に立ち、基地を見据えてそう叫んでいただきたい。

グスク山麓〜ちょうど売店や駐車場のあるあたりには日本軍の陣地が設営されていましたから、グスク山に向けて米軍の激しい射撃が加えられました。山の形が変わったという伝承もあるようです。今もそこかしこに砲撃のあとのような窪みが見つかりますが、この写真がまさしくそうなのかどうかはわかりません。
⑭公益質屋跡

三枚上の写真で、
女山(?)とその右側の学校、そしてグスク山が作る三角形のなかほどに、
この公益質屋跡という、
目にするだけで身の震えと心の涙が止まらない廃屋が残されています。
戦争当時、
コンクリ造りの建築物はこの質屋と国民学校だけであったこの島ですから、
この小さな建物にも日本軍が立てこもっていました。

伊江島の日本兵、沖縄農民兵は良く戦いました。
「日本」を守るための捨て石という立場に置かれながら、
戦車を破壊し、爆弾を抱いて陣地に突入し、
米軍の肝胆を寒からしめました。
しかし物量が桁外れにちがう闘いでした。
沖縄農民兵の中には、ほんとうに竹槍しか持たされなかった人もいたようです。
その結果がこの惨状です。
自らも大穴をあけられながら、
中で死んでいく日本兵の最期をじっと見ていたこの建物。
掌を壁に押し当てて、わたし、
心通ったような気がして少し泣きました。
修学旅行生が必ずここを訪れますように。
伊江村が永遠にこの建物を保存してくださいますように。

伊江島紀行はここで終わります。
レンタカーを港で返却し、船で本部港にわたりました。
その夜は本部の宿に泊り、翌日大阪に帰りました。
たった一泊二日の伊江島滞在でしたが、
沖縄の島々はいずれも、
なぜこんなに心にくいこむ想い出ばかりを残してくれるのでしょう。
与那国島紀行
久高島紀行
「伊江島紀行」完
登山の前日に、北側(「カーサ・ビエント」側)から撮影したグスク山。
伊江島島内ではグスク(城)山、
島外からは主にタッチューと呼ばれる標高172.2mの岩山に登って来ました。
岩山、と軽く書きましたが、ここは古くから島人の信仰の対象になっていたようで、ふもとにはウタキ(城山御嶽)が置かれています。
本来気軽に登ってはならない山だったのでしょう。
別の回にも書きましたが、内地で言う「磐座」としての存在感がみごとです。
ウタキに拝みをさせていただきました。
登山の当日、登山道入り口(売店/駐車場のある場所)から仰ぎ見たグスク山。
私たちはレンタカー利用でしたから、ウタキ前まで車で進み、ここから徒歩で登ります。
おそらく標高100mはありそうなこの場所には売店、トイレ、駐車場が。
ただ、ここウタキ前に至るルートを示すわかりやすい道路標識はありません。
できるだけ上に進もうとした結果、たどりつきました。
ここからなら、私たちの弱い足でも20分もあれば登れるこのグスク山ですが、直登ですから楽とは言えません。
狭い階段ですが、なんとかすれちがえますので、休み休み行かれても大丈夫だと思います。
ただ、風の強い日には十分注意してください。
低い岩山ですが、このような急階段の連続なので息が切れます。
さて、この山にはいくつかの話題があります。
一つ目は、その地質学上の特質です。伊江村のホームページを見てみましょう。
「城山は、島より7千年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新らしい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられました。この現象は、理論として語られていたが実際に見るのは世界でも伊江島しかありません。」
目で見える形では、今の所世界でたった一カ所だということです。
頂上に到着。360度の展望が待っています。
二つ目は、「タンナーパ足跡の伝説」です。
頂上の岩の一つに巨大な「足跡」があります。その脇の石版の説明を紹介しましょう。
「その昔、伊江島にタンナーパという力持ちの大男がいました。
隣村との戦いでタンナーパは城山に登り攻めてきた敵に大きな石を投げつけ退散させました。
その時力いっぱい足を踏ん張ったために足跡が残りました。」
やりましたね、英雄玉那覇(?)さん。
東南側の眺望。畑地、米軍管理地や飛行場も見えていますが、写真ではうまく写っていません。
三つ目は、この山のふもと一帯に旧日本軍の守備基地が置かれ、上陸した米軍との間に熾烈な戦闘が行われたことです。
伊江島在住のnankaiadanさんの詳しいブログによれば、
第2歩兵隊第1大隊(隊長井川正少佐、通称井川隊)の880名に加え、他の沖縄地域から徴発された民衆や伊江島島民(14歳以上)が戦闘に加わり、グスク山眼下の地域で日米双方に数千人の死者を出すことになりました。
米軍は、ふもとの女山を「Bloody Ridge(血ぬられた丘)」と名付けたそうです。
もちろん、この戦闘にタンナーパは現れませんでした。
頂上から南側(港側)の眺望です。大きな町であることがわかります。こんもりとした緑の丘が女山だと思われます。
現在もこの伊江島の面積の35%が米軍の管理下に置かれています。
戦後、島民の激しい抵抗をしりぞけて60%にも達したそうですが、粘り強い運動の成果でここまで減りました。
とはいえまだこれだけの旧農地が「日本」あるいは「沖縄」に戻っていません。
戦争で勝った国が、負けた国にまだ居座っている、という見方に無理がありますか?
「戦勝国による押しつけ憲法」を「改正」しようとする動きが活発になっていますが、
「戦勝国による押しつけ接収」がまだ終了しておらず、それどころかそれを積極的に是認したうえで、憲法だけの押しつけを語るのは、
あまりにもひどい自己矛盾ではないかと思うのですが?
「改正」を唱える政治家は、このグスク山の頂上に立ち、基地を見据えてそう叫んでいただきたい。
グスク山麓〜ちょうど売店や駐車場のあるあたりには日本軍の陣地が設営されていましたから、グスク山に向けて米軍の激しい射撃が加えられました。山の形が変わったという伝承もあるようです。今もそこかしこに砲撃のあとのような窪みが見つかりますが、この写真がまさしくそうなのかどうかはわかりません。
⑭公益質屋跡
三枚上の写真で、
女山(?)とその右側の学校、そしてグスク山が作る三角形のなかほどに、
この公益質屋跡という、
目にするだけで身の震えと心の涙が止まらない廃屋が残されています。
戦争当時、
コンクリ造りの建築物はこの質屋と国民学校だけであったこの島ですから、
この小さな建物にも日本軍が立てこもっていました。
伊江島の日本兵、沖縄農民兵は良く戦いました。
「日本」を守るための捨て石という立場に置かれながら、
戦車を破壊し、爆弾を抱いて陣地に突入し、
米軍の肝胆を寒からしめました。
しかし物量が桁外れにちがう闘いでした。
沖縄農民兵の中には、ほんとうに竹槍しか持たされなかった人もいたようです。
その結果がこの惨状です。
自らも大穴をあけられながら、
中で死んでいく日本兵の最期をじっと見ていたこの建物。
掌を壁に押し当てて、わたし、
心通ったような気がして少し泣きました。
修学旅行生が必ずここを訪れますように。
伊江村が永遠にこの建物を保存してくださいますように。
伊江島紀行はここで終わります。
レンタカーを港で返却し、船で本部港にわたりました。
その夜は本部の宿に泊り、翌日大阪に帰りました。
たった一泊二日の伊江島滞在でしたが、
沖縄の島々はいずれも、
なぜこんなに心にくいこむ想い出ばかりを残してくれるのでしょう。
与那国島紀行
久高島紀行
「伊江島紀行」完
Posted by gadogadojp at 18:30│Comments(0)
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